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会津の歴史を知る

戊辰戦争、白虎隊、新選組・・・会津の歴史を知る

戊辰戦争、白虎隊、新選組など数々の歴史ドラマの舞台となった会津若松。会津人の根底にある教えを知れば、より歴史の理解を深めることができるかもしれません。
激動の歴史、渦中にあった鶴ヶ城
江戸時代末期、ペリー率いる黒船の来航をきっかけに徳川幕府と薩摩藩、長州藩が対立。会津藩主の松平容保は幕府から京都守護職を命ぜられ、不穏な京都の治安を任されました。幕府軍が敗走した慶応4年(1868)旧暦1月、鳥羽伏見の戦いがターニングポイントとなり、江戸の無血開城の後、新政府軍の標的は会津に向けられたのでした。同年8月22日旧幕府軍が猪苗代町の母成峠で敗退すると、なだれを打ったように新政府軍は若松城下に攻め入り9月22日旧幕府軍が降伏するまで会津各地で戦いが繰り広げられました。この一連の戦いをこの年の干支にちなんで戊辰戦争といいます。この戦争では城下のいくつかの武家屋敷で婦女子が自刃するという悲劇がありました。司馬遼太郎さんは『街道をゆく~第33巻奥州白河・会津のみち』でこう語っています。「歴史のなかで都市ひとつがこんな目に遭ったのは、会津若松しかない」と。
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会津を治めた武将たち

会津を治めた武将たち

中世、葦名氏が長く会津を治めていましたが、1589年伊達政宗によって滅ぼされました。しかし政宗は豊臣秀吉に疎まれ1年余りで会津を去りました。会津は東北の要とのことから秀吉は文武両道に秀でた蒲生氏郷を配し92万石の石高を与えました。氏郷は七層の天守を築き産業を興し、城下町を整備。しかし、蒲生時代は長く続かず、秀吉が次に指名したのは徳川家康のライバル、上杉景勝でした。上杉も関ヶ原の戦いの後、会津を追われ、後に会津の藩主となったのが、3代将軍家光の異母弟の保科正之です。4代将軍家綱の後見人も務め数々の業績を残すなど、近年高く評価されています。

白虎隊士の墓には今も献花が絶えません
白虎隊は幕末期、会津藩の軍制で数え16~17才の会津藩士子弟で編成された組織。慶応4年旧暦8月22日、藩主松平容保の近衛兵として滝沢本陣に出陣した白虎士中二番隊は敵を戸ノ口原に迎え撃つも、新政府軍の猛攻に敗走。飯盛山にたどり着きました。ここで目にしたのは砲煙と炎に包まれた城下でした。少年たちの間では入城すべきか、敵軍に突入し玉砕すべきか激論が交わされたといい最後には「十数人ではとても対抗できない敵の圧倒的戦力の前で、捕虜になって敵の恥辱を受けるようなこととなれば、君侯と祖先に申し訳が立たない」との思いから「潔く自刃して武士の本文を明らかにする」道を選んだという。そして奇跡的にひとり蘇生した飯沼貞吉によって白虎隊の行動が後世に伝えられました。飯盛山の中腹にある墓地にはで自刃した十六士とこれ以前に戦死した3名が加えられ十九士の墓が正面に、右手には戸ノ口原などで戦死した少年たちの墓が立ち並んでいます。
*カギ部(「会津藩蘇生白虎隊士の事跡」飯沼一宇氏/会津会会報119号/より)
新選組の齋藤一が眠る七日町の阿弥陀寺
新選組は会津藩主松平容保が京都守護職時代に、その配下となって京都の治安にあたった組織で、元治元年(1864)の池田屋事件で有名になりましたが、指示は会津藩の公用人から出ていたといわれています。鳥羽伏見の戦いの後、局長の近藤勇は捕らえられて斬首、副長の土方歳三は宇都宮の戦いで負傷した後、会津に入りました。東山町の天寧寺にある近藤勇の墓は東山温泉で湯治をしていた土方が建立したと伝えられています。三番隊組長の齋藤一も土方とは別ルートで会津入りし、土方が函館に去ると、新選組の生き残りを会津で指揮しました。激戦地となった神指町如来堂には「新選組殉難碑」が建っています。齋藤一は最後まで会津で戦い、「死んだら会津に墓を建ててくれ」との遺言を遺して大正4年(1915)72才で東京で亡くなりました。墓は七日町の阿弥陀寺境内にある東軍墓地の一角にあり、明治になって藤田五郎と改名したため「藤田家之墓」として建っています。
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什の掟「ならぬことはならぬものです」

什の掟「ならぬことはならぬものです」

会津人の根底にある教え

よく会津人は頑固だと言われますが、その根底には「什の掟」の最後に記される「ならぬことはならぬものです」といった精神的支柱があるのかもしれません。つまり、理屈ではなく「ダメなものはダメ」、という教えに基づく厳しい考え方です。会津藩では次代を担う青少年の教育にことのほか熱心でした。学問好きの藩祖保科正之の影響が大きかったのでしょう。家老田中玄宰の進言で5代藩主松平容頌の寛政2年(1805)には藩校日新館ができました。「什の掟」は日新館入学前の藩士の子弟が毎日午後に仲間の家に集まり、遊びの前に話し合う自治的な定めです。現代では通用しない内容もありますが、その考え方や掟の価値は再び注目されています。市内河東町には忠実に復元した會津藩校日新館があり、当時の少年たちの勉強ぶりを知ることができます。また、鶴ヶ城の西の藩校跡地に当時の天文台跡が残っています。