戊辰戦争、白虎隊、新選組・・・会津の歴史を知る
戊辰戦争、白虎隊、新選組など数々の歴史ドラマの舞台となった会津若松。会津人の根底にある教えを知れば、より歴史の理解を深めることができるかもしれません。会津戊辰戦争って何?
会津を治めた武将たち
伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝など
武家社会に入り葦名氏が長い間中世の会津を治めていましたが、天正17年(1589)伊達政宗によって滅ぼされました。会津の領主となった政宗は豊臣秀吉に疎まれてわずか1年余りで会津を去りました。地形的に会津は東北の要ですから、秀吉は文武両道に秀でたエリート蒲生氏郷を会津に配し92万石の石高を与えました。氏郷は七層の天守閣を築くとともに産業を興し、城下町を整備しました。秀吉が会津を訪問したのも氏郷の頃でした。しかし、蒲生時代は長く続きませんでした。秀吉が次に指名したのが、徳川家康のライバル、NHK大河ドラマ「天地人」で知られた上杉景勝でした。関ヶ原の戦いの後、徳川の時代に入りますが、加藤時代を経て会津を支配したのが、2代将軍秀忠の庶子で3代将軍家光の異母弟の保科正之でした。会津松平藩の藩祖ですが、4代将軍家綱の後見人として幕政に参画し数々の業績を残すなど、近年高く評価されています。
白虎隊の悲劇
新選組と会津藩
什の掟「ならぬことはならぬものです」
会津人の根底にある教え
よく会津人は頑固だと言われますが、その根底には「什の掟」の最後に記される「ならぬことはならぬものです」といった精神的支柱があるのかもしれません。つまり、理屈ではなく「ダメなものはダメ」、という教えに基づく厳しい考え方です。会津藩では次代を担う青少年の教育にことのほか熱心でした。学問好きの藩祖保科正之の影響が大きかったのでしょう。家老田中玄宰の進言で5代藩主松平容頌の寛政2年(1805)には藩校日新館ができました。「什の掟」は日新館入学前の藩士の子弟が毎日午後に仲間の家に集まり、遊びの前に話し合う自治的な定めです。現代では通用しない内容もありますが、その考え方や掟の価値は再び注目されています。河東町には忠実に復元した會津藩校日新館があり、当時の少年たちの勉強ぶりを知ることができます。また、鶴ヶ城の西の藩校跡地に当時の天文台跡が残っています。