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町野主水_顔写真

会津藩のラストサムライ・町野主水。幕末後の会津を支えた男の人生とは?

「会津若松の歴史」というと、やはり幕末の印象が強い方が多いと思います。しかし、戊辰戦争後も会津に残り、会津を支えた人物がいます。それが「町野主水(まちのもんど)」です。一般にはあまり知られていない人物ですが、戊辰戦争後の会津総取締として、現代の会津にとっても非常に重要な働きをした人なんです。
「会津藩のラストサムライ」と呼ばれ、現代の会津にもつながる功績を残した男はどんな人生を送ったのか。本記事では町野主水について、会津の方々のお話を交えながらご紹介します。
ライター:齋藤香織 20 ビュー

町野主水(まちのもんど)とは

町野主水は、幕末から明治を生き抜いた会津藩士です。会津の名門・町野家に生まれ、戊辰戦争時は越後方面での戦いを指揮。戦争後は会津に残り、遺体の埋葬をはじめとした残務処理を行いました。
生涯を亡くなった会津藩士たちの供養に捧げ「サムライ」らしい逸話を多く残すことから「会津藩のラストサムライ」とも称されます。
今回は、そんな主水を知り、愛し、広めたいと考えている会津の方々にお話を伺いました。

破天荒に見えて本質を見抜いていた人物

まずお話を聞いたのは、町野主水に沼った歴女・渡部佳子さん。渡部さんは東京都出身で、2017年に旦那さんの故郷である会津若松市に移住してきました。
散歩中に大町通り・熊野神社の前にある看板で主水を知り、それから興味を持って調べたことをきっかけに「主水沼」に落ちたそうです。今では主水を知ってほしいとの想いから、八十里越えのトンネル&橋梁の愛称募集に「主水」と「久吉(ひさきち)」と応募するほどに。
「私は主水を『Mr.破天荒』と呼んでいます。私が好きなエピソードの1つに「脱獄して3番槍(2番槍とも)になった」というエピソードがありますが、こういう話に事欠かない人なんです」
渡部さんのおっしゃるエピソードは、京都守護職を命じられて上洛した際の話。主水は他藩と揉め事になり、相手を斬り殺してしまいました。その咎で投獄されていたのですが、蛤御門の変が起こったと知るやいなや牢を抜け出し、3番槍を上げました。本来3番槍を取ったら100石の加増が認められるのですが、主水は脱獄してきたので、加増どころか津川に流刑にされる始末。
他にも、

 
  • 戊辰戦争後の会津の行き先について山川大蔵と揉めて抜刀
  • 自宅に来た暴漢を峰打ちで撃退
  • 戦死した弟の槍を返そうかという話に対して「戦場で奪われたものを畳の上で受け取れない」と受け取り拒否
  • 自分の遺体は菰に包んだだけの状態で埋葬し、戒名は「無学院殿粉骨砕身居士」とすることと遺言

などなど……。このほかにもさまざまな破天荒エピソードが残されています。
ここだけ聞くと非常に直情的な人物のように思えますよね。しかし、渡部さんの思う主水の魅力は、破天荒さではないそうです。
「主水の本当の魅力は、時世を俯瞰して、今自分がすべきことを、周囲を気にせずに実行したことです。破天荒エピソードの印象が強いので、どうしても『めちゃくちゃな人』と見られがちなんですが、それは結果。実際は冷静に物事を見ている。本質をわかっている人だったと思います」
エピソードを見ると『Mr.破天荒』という呼び名がぴったりですが、主水をよく調べてみると、確かに意外と冷静です。
会津の行き先で大蔵と揉めたのも「全く知らない不毛の地に行けば、苦労するのは目に見えている」という考えから。戊辰戦争時も、主君である松平容保に意見を求められ、はっきりと「会津は負ける」と公言しています。そうわかっていて戦ったのは、主君や会津と一緒に死ぬのは今だと定めたからだったのでしょう。
「私は昔から優等生であろうとして周囲の目を気にして生きてきたので、そういう「誰に何を言われても、自分のすべきことを全うする」という姿勢に憧れたのかもしれません」
主水には、戦の際に入隊を志願してきた桑名藩の青年たちを「お前たちのような素晴らしい若者を今死なせるわけにはいかない」と、金を渡して海外に逃亡するように言ったエピソードもあります。無事にイギリスにわたって成功した彼らは、恩返しのために後に会津の町野家を訪れたのですが、主水は「そんな奴は知らない」と言って白を切ったそうです。
「実は意外と優しいんですよね」という渡部さんの言葉に、納得しました。

【関連スポット①】主水の家跡で、同じ家紋のお菓子を「太郎庵 西栄町店」

破天荒かつ時世を読んで自分のすべきことを実行してきた主水の性格は、会津の名門であり320石をいただく町野家で作られました。主水が生まれた屋敷の跡には、現在「太郎庵 西栄町店」があります。

太郎庵は「お菓子を通して会津の自然や歴史、風土の素晴らしさを伝えること」を大切に、商品作りをしています。会津の素材はもちろん、歴史文化を踏襲したものが多く、お菓子をいただきながら、会津を知ることができる商品ばかりです。店内にはイートインスペースもあり、お茶を飲みながらおいしいお菓子でまったり過ごすこともできます。
中でも歴史好きや会津らしいお土産を探している方に食べていただきたいのが「会津藩物語」。昭和59年の鶴ヶ城築城600年を記念して発売したゴーフレットで、サクッと軽やかな食感が魅力。ミルク・ストロベリー・チョコの3種類の味を楽しめます。
表面には鶴ヶ城の軒瓦をもとにした「三つ巴」の意匠。これは火難除けの縁起模様で、古い家の瓦にはほとんどと言って良いほど、この意匠が刻まれています。
実は町野家の家紋も、会津藩物語の意匠と同じ「左三つ巴紋」なんです。町野家の跡に太郎庵があるのは、もしかすると主水の導きだったのかもしれません。

■太郎庵 西栄町店

住所:会津若松市西栄町2-16
営業時間:9:30~18:00
駐車場:あり(9台)

先人の想いを今につなげたラストサムライ

主水はよく「会津藩のラストサムライ」と評されます。具体的に何をしてきたのか。なぜそう呼ばれるのか。町野主水家顕彰会の会長・酒井完さんと、会員の大塚セイ子さんにお話を伺いました。
「町野家は蒲生氏郷に従って会津入りした家で、主水はその9代目にあたります。先祖は猪苗代城主から二本松城主、白河城主などを務めた名家で、蒲生家の断絶に伴い徳川家に仕え、保科正之の会津転封時に再度召し抱えられました」
「戊辰戦争時には、弟の久吉と共に越後方面で奮戦したことで知られていますね。兄弟揃って強いことで有名で、会津戦争時に唯一大勝利を挙げた熊倉の戦いで戦ったのは、主水が率いる部隊だったんです」
主水も久吉も槍の名手として知られていました。久吉は当時白虎隊に所属する年齢でしたが、家宝である三条宗近の槍を持って出陣し、北越戦争の最中に戦死。妻や母親、子供たちは会津坂下方面に逃れ、勝方寺の裏山で自刃しています。
そんな激しく悲しい戦を戦い抜いた主水のサムライの精神は、明治時代も健在だったと大塚さんは語ります。
「主水の姪孫(兄弟の孫)である百合子さんが学校の役員で会計になったときのこと。自宅で会計の仕事をしていたら、主水に「金勘定なんて武士の娘がすることじゃない!」と、激しく叱責されたそうです。天幕の話もそうですが、明治でも「サムライの生き方」を貫いた人ですよね」
天幕の話というのは、大正時代の慰霊祭での出来事です。主水が出席する慰霊祭で雨が降ってきた際、市長が気を利かせて「天幕に退がってください」と言ったら、主水は「武士に退がれとは何事だ!」と一喝したといいます。まさに「ラストサムライ」と呼べるお話ですよね。
ただ主水の本当の功績は、戊辰戦争後にあります。
「主水は戊辰戦争後、藩の取締として会津に残り、残務処理を行うことになりました。会津の市街地に放ったままになっていた遺体を埋葬することになったんです。最初は明治政府から「罪人として葬れ」と命じられたんですね。しかしそれではあんまりだと、主水が役人と交渉し、しっかりした墓に埋葬することができたんです」
主水は伴百悦、高津仲三郎といった同志と共に、七日町の阿弥陀寺に遺体を埋葬。明治7年には阿弥陀寺と長命寺で戦死者の供養祭を開催しています。
「主水は残された自分がすべきことは、亡くなった会津藩士たちの供養だと思い定めていました。懸念したのは、こうした供養も自分が亡くなったらされなくなるのでは、ということです」
そこで大正2年に結成されたのが「会津弔霊義会」です。主水は初代会長に就任し、大正6年には財団法人として認可されました。
「主水は戊辰戦争後に生まれた子供に、戦争時7歳で亡くなった娘と同じ”ナオ”と名付けているんです。こうした点も含めて、主水は先人たちの想いを未来につなげる起点を作ったのだと思います」
会津弔霊義会は設立から100年以上が経過した現在も存在し、毎年戊辰戦争で亡くなられた方々の慰霊を行っています。主水の想いは、確実に現在も受け継がれていると感じますね。
「町野主水家顕彰会がやるべきことは、こうした主水の功績を会津の方々はもちろん、会津以外の方々にも広く周知していくことだと思っています。6月9日の主水の命日には、毎年墓前で慰霊祭を行っています。非常に素晴らしい人物なので、今後は講演会なども行ってより広く主水を知ってもらいたいと思います」
酒井さんも大塚さんも、主水と同じように先人の想いを未来へつなげる役割を担っています。主水に興味が湧いた方は、ぜひ町野主水家顕彰会への入会をご検討ください。

町野主水家顕彰会

連絡先:090-4632-0448(酒井完さん)

【関連スポット②】主水のさまざまな「戦い」を実感できる「鶴ヶ城」

会津若松市最大の観光スポットである鶴ヶ城は、主水の「戦い」を実感できる場所です。

特に注目してほしいのは、二の丸の芝生近くにある井戸。現在は山本八重の短歌を説明する看板が近くに立っていますが、ここは主水が遺体の収容を開始した場所でもあります。
戦中は満足に遺体を埋葬することができなかったため、井戸の中に投げ込まれた遺体も少なくありません。主水たちはそうした遺体を一つひとつ井戸から引き揚げ、身元を確認し、判明しなかったものは阿弥陀寺に運んで埋葬しました。
鶴ヶ城内の建物が売りに出された際には、主水の口利きによって、会津の商人たちに買わせることに成功しています。主水としても、鶴ヶ城の建物はなるべく会津に残しておきたいという想いがあったのでしょう。
また鶴ヶ城には主水の弟である久吉の槍も収蔵されています。戊辰関係の企画展などで展示されることがあります。

■鶴ヶ城

住所:福島県会津若松市追手町1-1
営業時間:8:30 ~17:00 (最終入場は16:30)
駐車場:あり(有料/最初の1時間200円、以降1時間ごとに100円追加)
 

【関連スポット③】主水が生涯をかけて供養した「東軍墓地」

七日町の阿弥陀寺内にある会津藩士たちを埋葬した墓地。

残務処理を任された主水は、同じく会津に残った20名と共に、散らばった遺体の埋葬に尽力しました。阿弥陀寺内に深い穴を掘り、その中に遺体を並べて蓆と土をかぶせていく作業を繰り返したそうです。最終的には1.2メートルもの高さになったと言い、眠る遺体は1,281体と伝わっています(近年出てきた史料によると、正確には埋葬ではなく「改葬」だとされています)。
会津葵の掲げられた門戸の前に立って、手を合わせてみました。主水もこうして亡くなられた方々の冥福を祈ってきたのかなと、なんだかじんと来てしまいます。

■東軍墓地(阿弥陀寺内)

住所:福島県会津若松市七日町4-20
駐車場:なし(七日町周辺の有料駐車場をご利用ください)
  

会津らしい主水の血はまだ生きている

主水の「武士らしい血」は、まだ受け継がれています。お話を伺ったのは、フジグランドホテル専務の星野孝人さん。フジグランドホテルには、主水の姪孫である百合子さんが、会津に来るたびに宿泊していたそうです。
「もともと当ホテルをご利用いただいていたようなんですが、あるとき父が偶然百合子さんに声をかけられたんです。それがきっかけで、お話しさせていただくようになって。坂下の勝方寺もご案内して、慰霊碑を建てるお手伝いもしました」
実は星野さん、義理のお父様が弔霊義会の会長をしていたそう。お父様がたまたま子孫の方に声をかけられる、義理のお父様が主水の作った弔霊義会の会長と、主水とは運命的な繋がりを感じているそうです。
「百合子さんは、とても上品な方でした。外見はいかにも東京のハイソサエティな人という印象。でも話してみると結構押しが強く、ブレない一本筋が通っている人で、会津らしい主水の血を引いている人だなと思いました。ご宿泊の際は、駅前も中町も両方ご利用くださってましたよ」
ちなみに2026年10月現在「会津会」の会長でいらっしゃる町野英明さんは、主水の曽孫にあたる方です。
主水の想いはご子孫の方を通して、今の会津にも続いているんですね。

【関連スポット④】観光スポットへのアクセスが便利「フジグランドホテル」

百合子さんが定宿にしていたというフジグランドホテル。特に中町フジグランドホテルは、観光スポットや飲食店へのアクセスが良く、会津をよく訪れる歴史好きの方も多く利用しています。これまでご紹介した太郎庵や鶴ヶ城、東軍墓地などは、いずれも徒歩20分以内で行ける距離にあるので、会津観光に最適です。

駐車場は無料で利用できる上、出入りは自由。自転車もお貸ししています(4月~11月のみ)。
女性のみ宿泊可能な、可愛らしいレディースルームもあります。ドライヤーやアメニティにこだわっており、旅で疲れた女性の体をしっかりと癒してくれそうです。
百合子さんもフジグランドホテルのこうした細やかな心遣いに、惹かれたのかもしれませんね。

■フジグランドホテル(中町)

住所:福島県会津若松市中町1-12
営業時間:チェックイン 15:00 /チェックアウト 10:00
駐車場:あり(宿泊者は無料)
  

【関連スポット⑤】会津藩のラストサムライが眠る「融通寺」

会津藩士の供養に一生を捧げた主水は、大正12年6月9日に永眠しました。享年85。

彼の墓は会津若松市内の「融通寺」にあります。「町野家墓域」の門をくぐり、すぐ左前にあるのが戊辰戦争で亡くなった主水の母と妻子たち。その左隣が弟・久吉の首塚、さらに左隣が主水の墓です。
主水が亡くなった際、息子の武馬さんは遺言通り、菰に包んだだけの状態で遺体を運ぼうとしました。主水は戊辰戦争の最中、容保から戦死者の埋葬について意見を求められた際「会津は負ける。現場を知らないあなた方は棺に入れて丁寧に埋葬しろというが、そんな余裕はない。皆、菰で包んで捨てるのだ」と発言しています。そんな自分が生き残り、棺で埋葬されるのは申し訳ないと思い「菰で包んだだけの埋葬をしろ」と遺言したのかもしれません。
最期まで「サムライ」と呼ぶに相応しい人だったんですね。

■融通寺

住所:福島県会津若松市大町2丁目7-45
駐車場:あり(本堂の前に数台程度)

明治の会津を支えた男は確かに「ラストサムライ」だった

私はもともと町野主水の功績は、概要だけ知っていました。しかし、今回町野主水を知る人々にお話をお聞きして、意外な一面を多く知ることができ「実際に幕末から明治を生きていた人」というのを実感しています。変化が激しかった時代、本質を見つめて変化に適応しながらも、変えてはいけないものは守り通した男。まさに「会津藩のラストサムライ」に相応しい人物だと思います。
会津にお越しの際は、ぜひ会津藩のラストサムライの軌跡を、肌で感じてみてください。
本記事執筆にあたり、取材にご協力いただきました皆様、お写真掲載の許可をいただいた関係各所の方々、ありがとうございました。

 

参考資料

  • 「その名は町野主水」中村彰彦|歴史春秋出版
  • 「会津士魂風雲録~町野武馬翁とその周辺~」会津士魂風雲録刊行会|ゆまに書房
  • 「会津戊辰戦死者埋葬の虚と実 戊辰殉難者祭祀の歴史」野口信一|歴史春秋出版
  • 「町野主水家資料」町野主水家顕彰会

この記事を書いたのは

齋藤香織
齋藤香織
喜多方市出身。デザイナー兼ライター。 鶴ヶ城にサムライとして勤務したことをきっかけに会津の歴史に目覚め、会津幕末検定2級を所持するほどの会津歴史ヲタクに。 500名近くの会津藩関係者の墓を探してお参りしてきた、墓マイラーでもあります(まだまだ記録更新中)。 地元民だからわかるディープな情報を、ときには地元民の声と一緒に、届けていきたいと思っています。