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会津ゆかりの人物
まちを歩いて、歴史上の人に会ってみよう
全3ページ
人物1 人物2 人物3
※人物名の下の年号・数字は生没年
葦名盛氏(あしなもりうじ)

大永元年-天正8年
(1521-1580)
あしなもりうじの木像の写真
宗英寺蔵・会津武家屋敷写真提供
戦国の会津に
君臨した名将

 中世会津の領主 蘆名氏第16代当主。武田信玄、上杉謙信などと連携を保ち、葦名氏の絶頂期を築く。しかし第20代義広の時に伊達正宗に攻め込まれ、葦名氏は滅んだ。
宗英寺(市街図 B-5)に国重文の木像あり、詳細説明(外部リンク)
千 小庵(せんのしょうあん)

天文15年-慶長19年
(1546-1614)
せんのしょうあんの肖像画
千家蔵
千利休の子、
小庵は会津に逃れる
 豊臣秀吉によって千利休は切腹を命ぜられたが、子の小庵は蒲生氏郷を頼って会津へと逃れた。滞在中、小庵は茶室「麟閣」を建てた。小庵の子が宗旦で、その後現在に至るまで千家茶道は続いている。
鶴ヶ城に麟閣(市街図 C-5)が復元、詳細説明(外部リンク)
蒲生氏郷(がもううじさと)

弘治2年-文禄4年
(1556-1595)
がもううじさとの肖像画
興徳寺蔵
戦国大名のエリート
 キリシタン大名で、豊臣秀吉の奥州仕置の後、会津の領地を任さる。城下町の町づくりとともに伝統産業である酒や漆器などを興し、現在の会津若松市の基礎を築いた。
大町四ツ角(市街図 C-4)に解説版、詳細説明(外部リンク)
保科正之(ほしなまさゆき)

慶長16年-寛文12年
(1611-1672)
ほしなまさゆきの肖像画
土津神社蔵
将軍家綱を
補佐した名君

 3代将軍家光の異母弟で、信州高遠の保科家の養子になるが、その能力を買われて将軍の補佐役に迎えられる。33歳の時に会津藩主となり、家訓十五カ条を定めるなど名君のほまれが高く、会津松平家の藩祖とあがめられている。
詳細説明(外部リンク)
横田俊益(よこたとします)

元和6年-元禄15年
(1620-1702)
よこたとしますの肖像画
長谷川恵一画
会津武家屋敷蔵
民間学校「稽古堂」
創設者

 保科正之に仕え、会津藩教学の祖といわれる儒学者で、寛文4年(1644年)に日本の地方教育機関の始めとされる学問所・稽古堂を創設し、藩士や庶民の師弟の教育にあたった。
稽古堂跡の威徳院(市街図 C-4)に案内板、詳細説明(外部リンク)
山鹿素行(やまがそこう)

元和8年-貞享2年
(1622-1685)
やまがそこうの肖像画
会津武家屋敷写真提供
忠臣蔵の
精神的バックボーン

 若松城下に生まれ、6歳の時に父と共に江戸に出て、学問に励みました。後に赤穂藩に仕え、忠臣蔵で大石内蔵助が打ち鳴らす太鼓は山鹿流陣太鼓と呼ばれた。
山鹿町の生誕地(市街図 C-5)に碑と案内板、詳細説明(外部リンク)
田中玄宰(たなかはるなか)

寛延元年-文化5年
(1748-1808)
たなかひろなかの肖像画
長谷川恵一画
会津武家屋敷蔵
日新館の生みの親
 凶作でがたがたになった藩を立て直すために大改革を行った会津藩の家老で、藩校日新館を作り、人材の育成につとめた。墓は遺言通り、鶴ヶ城を望む小田山山頂にある。
R118沿い、若松商業高校入口(市街図 C-5)に解説版、詳細説明(外部リンク)
 
秋月胤永(あきづきかずひさ)

文政7年-明治33年
(1824-1900)
あきづきかずひさの肖像画
秋月一江氏蔵
幕末でも活躍した
明治の教育者

 通称:秋月悌次郎。藩主容保が京都守護職になると、公用局員として活躍。戊辰戦争後は敗戦処理のさい配をふるった。67歳で熊本第五高等学校の教師となり、立派な人格は同校教師の小泉八雲に「神様のような人だ」と言わせるほど。
詳細説明(外部リンク)
山本覚馬(やまもとかくま)

文政11年-明治25年
(1828-1892)
新島八重(にいじまやえ)

弘化2年-昭和7年
(1845-1932)
やまもとかくまの写真
同志社社史資料室蔵
にいじまやえこの写真
同志社社史資料室蔵
会津武家屋敷写真提供
同志社大学の創立に尽くした兄妹
 覚馬は会津藩大砲頭取で、戊辰戦争後は失明しながらも京都府顧問、商工会議所会頭を務め、やがてキリスト教に共感し、新島襄とその妻であり、妹の八重と共に同志社大学の創立に力を尽くす。
 八重は戊辰の戦いでは男装し、肩に連発銃をかついで城に入り、立てこもるという男勝りの女性だった。戦後は兄を頼りに京都に出て、新島襄と知り合い結婚。

米代の生誕地(市街図 C-5)に碑、山本覚馬詳細説明(外部リンク)、新島八重詳細説明(外部リンク)
   
萱野権兵衛(かやのごんべい)

天保元年-明治2年
(1830-1869)
郡 長正(こおり ながまさ)

安政3年-明治4年
(1856-1871)
かやのごんべえの肖像画
白虎隊記念館蔵
こおりながまさの写真
会津武家屋敷写真提供
誇り高き会津武士の親子
 萱野権兵衛は戊辰戦争当時の会津藩国家老で、敗戦後、城の明け渡し、藩主父子の助命嘆願などに力を尽くし、戦争責任を負って切腹。
 郡長正は次男で、戊辰戦争後、九州豊津に遊学したが、母に食べ物のまずさを嘆いた手紙を出し、その返信を同級生に見られ、からかわれた。長正は周囲から受けた恥辱を切腹することによってはらし、武士の誇りを示した。16歳だった。

追手町(市街図 C-5)に解説版、萱野権兵衛詳細説明(外部リンク)、郡長正詳細説明(外部リンク)
西郷頼母(さいごうたのも)

天保元年-明治36年
(1830-1903)
さいごうたのもの写真
会津武家屋敷写真提供
数奇な運命をたどった
会津藩家老
 藩主容保が京都守護職を受ける際に最後まで反対。戊辰戦争では屋敷内で妻をはじめ21人の婦女子が自刃した。敗戦前に若松を離れ、日光東照宮の神職などを経て、晩年に戻り74歳の生涯を閉じる。
屋敷跡(市街図 C-5)に碑、詳細説明(外部リンク)

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