会津若松市は福島県の西部、四方を山で囲まれた会津盆地の東南にあります。すでに、4世紀には大和政権の下で東北の要衝(でした。
平安時代初期には空海(、最澄(の論敵(として日本仏教史上に名を残した名僧徳一(によって会津に仏教文化が華開きました。
武家社会に入り葦名(氏が長い間、会津全域を支配していましたが、天正17年(1589)に
伊達政宗(によって滅ぼされました。正宗の支配は1年余りで、その後、豊臣秀吉(の命を受けたキリシタン大名蒲生氏郷(が会津を治めることになりました。氏郷(は黒川(といわれた地名を若松と改め、七層ともいわれている天守閣を築くとともに、城下町を整備しました。また、漆器や清酒といった産業にも力を入れました。
その後、越後から上杉景勝(120万石)が入り、執政の直江兼続(の指揮で神指城(を築こうとしましたが、関ヶ原(の戦い後、米沢に移されました。
地震で崩壊(した天守閣を五層に再建するなど若松城の大改修を行った加藤(時代を経て、寛永(20年(1643)徳川秀忠(の子、三代将軍家光(の異母弟(、保科正之
((23万石)が藩主となりました。正之は四代将軍家綱(の補佐(役として幕政にも参画(し、文治政治(rt>ぶんじせいじ)基礎を固めました。
会津藩三代藩主正容(から松平(の姓を許され、御三家(に次ぐ格式を持ったのです。
その後、松平時代はおよそ200年続きましたが、文久(2年(1862)京都守護職(に就いた九代藩主容保(は孝明(天皇の信頼を得て治安の維持に努めましたが、慶応(4年(1868)に戊辰戦争(へと突入していったのです。
このときの白虎隊(の少年たちの物語はあまりにも有名です。
明治32年(1899)に福島県内で最初に市制が施行され、現在は人口約12万8千人の会津地方の中核都市に発展しています。
会津の人々は、厳しい紀行風土での生活、幕末期の敗戦による過酷(な経験によって、耐え忍ぶ我慢(強さと「ならぬことはならぬ」という矜持(と気質を持っています。また、食文化をはじめ独自の生活文化が今なお根強く残っています。 |